「召喚術の訓練中に事故が発生しました」
 朝っぱらからあまり楽しくない報告を聞かされて、文秀は端整な眉を顰めた。
 報告者は魔道士の部隊を束ねるこの国きっての魔法使いだ。人間に帰化した悪獣である彼は、いつも魔法で人間の姿に擬態している。種族の違いか、普段はあまり表情を表すことのない元暁だが、今回もご他聞にもれずその白い顔は端然としている。さほど重大な事故ではないのだろう。
 元暁は淡々と状況を説明する。
「下位の魔道士が魔力の制御に失敗して、術の有効範囲が広がったのです。正確に申し上げますと、魔法の集約地点の座標がずれて、術者の設定した場所から無作為に離れた場所へ実体化されてしまったのです」
「術士に被害は出たのか?」
「いいえ。効果の範囲が広がった分、実体化に要する魔力も拡散されまして、それ程危険の無い下位の妖怪が数体喚び出された程度でした。
 ただ、件の魔道士が少々特殊な魔力の持ち主らしく、本来限定されている召喚獣の行動能力が多くなっているらしいのです。召喚獣として現れるはずの妖怪が使役獣として現れてしまったとでもいうのでしょうか……珍しい現象なので、今後の研究対象にするつもりです。
 それで、問題は」
 ここで初めて元暁はちょっと困ったような顔をした。
「呼び出されたその妖怪が勝手にうろつきまわっているという所なのです」
 文秀は執務机に頬杖をついた格好のまま、渋面を作った。軍営の中とはいえ、妖怪が野放しになっているのは結構な問題じゃないか。元老院に知れたらまた面倒なことになりかねんな、と考える。
「そいつの危険性は?」
「害は無い……とは申しましても、何しろ妖怪は妖怪ですから、何も知らないものが見たら騒ぎになるでしょう。トッケビという妖怪ですが、ご存知ですか?」
 ああ、と文秀は頷いて多少姿勢を起こした。
「鬼の一種だろう。確かにそれ程凶暴な奴じゃないはずだったな」
 それくらいの小物なら、訓練された兵士ばかりの軍隊の中では深刻な被害が出ることも無いだろう。逆に見つけ次第捕獲するように命令すればいい。
「そいつらの居場所は把握できているのか?」
「おおよその所ですが。そのうちの何体かは既に捕獲済みです。まだ二〜三体が兵営内に潜んでいる可能性があり、場所は捕まえたトッケビ達の移動範囲から予測して、第三修練場、第五修練場、西区第二兵舎、東区第一兵舎、同第四兵舎、それと一号・二号厩舎付近と見ています。軍馬を損なうといけませんので、そちらには最優先で人を送りました」
「そうだな。奴らは食い意地が張っていると聞くし。馬が食われちゃ困る」
「それと、お酒と、美人が大好きなんですよね」
 執務中は必ず側に控えている補佐官の阿志泰が何気なく言った。
 急に文秀の顔から余裕が消えた。
「……元述は今、どうしてる?」
 東区第一兵舎には、花郎部隊の寮があるのだ。
「え? ええと、そうですね。この時間だと、朝の鍛錬を済ませて、ひと風呂浴びてさっぱりしようかという頃じゃないでしょうか」
 文秀が凄い勢いで立ち上がった。壁にかけてあった自分の剣と上着を引っつかむと、そのまま部屋を飛び出そうとする。もちろん行く先は花郎の寮だろう。
「落ち着いてください、将軍! トッケビ相手に、仮にも花郎の剣士が後れを取るとは思えないのですが」
 慌てて追いかける阿志泰に、入り口で首だけ振り返りながら文秀は叫んだ。
「風呂に帯剣して入る奴がいるか!? 薔薇から棘を取ったらきれいな花しか残らんのだぞ! しかも相手は妖怪だぞ、妖怪! 粘液とか触手とか変なもの出す奴相手にあんな事やそんな事されてたらどうしてくれるんだ!」
 どこのエロゲですかそりゃ。
 言い捨てて、風を巻いて走り去っていった上官を見送り、阿志泰と元暁は風圧で散らかった書類をせっせと拾い集めた。
「美人が危ないなら、将軍だって危ないと思うんですけど」
 本人は自分の事を美人でなく男前だと思ってるかもしれないが、至極当然な疑問を浮かべて首を傾げる元暁に、
「大丈夫ですよ。武器を持ってるし、あの剣幕ならトッケビだって逃げちゃうんじゃないでしょうか。それに将軍と元述郎のお二人が囮になって下さるなら、他に被害が行かなくていいんじゃないですか?」
 阿志泰があっけらかんと答えた。元暁は感心したように頷いた。
「美しい自己犠牲ですね」
 悪獣には無い精神である。人間びいきの元暁は、うっとりとしたように空を見上げた。

 結局のところ、トッケビたちは宿舎の厨房で食い物をあさっている所を見つかりお縄となった。色気よりも食い気だったらしい。
 そして花郎の宿舎では、軍刀を引っ提げて浴場に現れた将軍が、身体を洗っている最中で泡だらけの元述がぽかんとしている間に、上着で包んでそのまま連れ去ってしまったのを大勢の隊士が目撃し、しばらく語り草になったという。
 どっとはらい。