「お待ちしております」
 静かだが強い感情のこめられた言葉に、文秀はすげなく、ことさら軽薄な口調で答えた。
「待たなくていいよ。帰ってこないかも……だ」
 しんみりとした別れはどこか気恥ずかしい。柄で無いと自分でも思った。ふらっと行って、気が済んだら戻ってくる。そういう気軽さの中で旅立ちたかった。
 元述は澄んだ黒い目を瞬きもせず、じっと上官の目を見つめた。その目の奥に、揺れる光があった。
 そんな深刻になるなよ、と文秀は心の中で元述に語りかけた。ああは言ったが、二度と帰らぬ旅と決めたわけではない。それに元述、お前だって、その気があれば西洋に旅してみればいい。俺ばかり見ていないで、もっと広い世界に目を向けてみろ。
 そんな事を胸裡に呟きつつ、濡羽珠のような眸を覗き込む。この澄んだ眼に今日の空を映したら、どんなにか綺麗だろう。
 しかし元述は眼差しを伏せ、顔を俯かせた。
「それが命令だとおっしゃるのなら……そのように努めます」
「何故そんなに深刻になるんだ? そもそも、俺はもうお前に命令する立場じゃねえし」
「では、私のしたいようにします」
 ついには横を向いてしまった元述に、くわえタバコの唇を突き出しながら「この強情っぱりめ」と毒づく文秀である。
 それでも自分から立ち去ろうとはしない部下に、まあ最後くらいは……と文秀の方から近寄っていくと、はっとしたように白い顔が正面を向いた。顔を上げた元述がその黒瞳に映しているのは、空でも海でもなく文秀ただひとりである。自分の眸の中にも同じようにして元述がいるのだろう。
 二人は互いの目を通して己の心と向き合っていた。
 その澄明過ぎる鏡は、晦まし続けて来た己の真実を残酷にさらけ出してしまう。自分はもしかしてこの眸から逃げ出したくて、西洋へ向かうのではないだろうか。
 言葉をはぐらかすのは、とりもなおさず自分の中で答えが出ていないからに他ならない。いずれ帰るか、二度と帰るまいか、未だに決めかねている。再びこの地を踏む時には、確かな答えを用意できているだろうか。答えの出せないまま、西方で無為に日々を送る羽目になるのだろうか。
 爺さんになっても、こいつは待っているに違いない。
 帰らない、とはっきり言ってしまえば諦めるのだろうか。在官中に授かったものは全て返上し、後任への引継ぎも済んだ。立つ鳥跡を濁さず、きれいさっぱりオサラバするつもりで今日の日を迎えた。
 名実ともに、もう聚慎での自分の役目は終わったように周囲に示してきたつもりである。それでも文秀は英雄として多くの兵士達から尊崇され、元述は未だに彼を「将軍」と呼び続ける。
 上空を流れる雲が太陽を覆った。鏡にも影が落ちそこに映したもろもろの想念も暗渠の中に沈んだ。感情が言葉を形作る機会を失ったようだった。
 もとより、けして口にできない言葉があった。戦塵の中で喘いでいた時は腹に留めたまま地の底まで持っていくつもりだったのに、平和になった途端、それを忘れたのだろうか。口に出せば嘘になる真実を、けして告げるつもりはなかった。今も、これからも。
 だから文秀は無言で背を向けた。結局のところこの旅は彼の気まぐれの産物に過ぎない。そうでなくてはならない。眼前に立ち塞がるものが消えれば、あの眸は否応無しに広い世界を目にするだろう。そのとき、本当に元述の人生が元述だけのものになる。国だの〈郎〉だの関係なく、自分自身に立ち返ることができる。
 その時に、見つめる先が同じであれば、また道は交わるだろう。
「お待ちしてます、いつまでも……」
 段を降る文秀の背中に元述の声が追いすがる。その声は既に懊悩を振り切った涼やかさがあった。一途さと言えばよいのか、最後まで想い遂げようとする悲壮な決意が逆に明るさを含んでいた。でもそれはむなしい明るさなのではないだろうか。
 文秀は振り返らなかった。階《きざはし》の上に立って元述が自分を見送っているだろう事は、振り返らなくてもわかっていた。
 平和を取り戻した美しい聚慎。その青い空の下に生きる人々の姿を、どこにいても自分は思い描くことが出来る。
 最後に一度だけ、聳え立つ聚慎城を見上げた。
 あの城の中で、親友が、かつての部下達が、彼の愛する者達が、生活している。
 そして、
 明るい蒼穹の下の聚慎の町並みを彼が見たのは、それが最後になった。