滝の側にいるような轟音だった。
その音は馬蹄の轟きにも似ている。目に見えぬ軍隊が天空を駆け抜けていく。
望楼から遠く眺める聚慎の町並みは白くけぶり、水墨画のように雨滴の幕に滲んで見えた。
にわかに降り出した雨は天から降り注ぐ無数の矢のごとく、地上のあらゆるものを打ち据えていく。人々は逃げるように軒下へと駆け込み、天の軍隊が通り過ぎるのを待つばかりだ。
辺鄙な場所に建てられた四阿《あずまや》でひとり紫煙を燻らせていれば、時間に置き去りにされたような気分を味わう。不思議とその孤独が心地よい。
視線を下ろせば、斜面のところどころに生えている潅木の丸い茂みが、水滴に打たれて濡れた葉を青々と光らせている。大振りの丸い葉を持つその木は何という名前だったか。つややかに濡れた青葉に挟まれるように枯れた茶色の塊がある。
花の骸か――
その植え込みに沿って道幅の狭い石段が傾斜を下り、やがて兵舎と訓練施設を結ぶ連絡通路へと至る。建物の内部には他に人気は無い。
人が何かをしようという時には雨は邪魔者にしかならないが、怠惰な昼下がりには、雨に降り込められるのもけして悪くない。
文秀は暗く垂れ込める雲の天蓋を仰ぎ、立ち上る細い煙がゆるゆると回転しながら空に溶けていくのを眺めた。今、彼は雨滴ではなく、雨音に身を浸しているのである。
木も岩も、飛び散る細かい水滴によって薄ぼんやりと光をまとっている。水に滲むような風景の中にいると、自分の意識も融けて広がっていくようで、やがて耳を聾する雨音すら優しい子守唄のように聴こえてくる。
ここは人目を気にせずのんびり過ごすにはおあつらえ向きの場所だった。急斜面にへばりつくようにして建てられた四阿は、眼下の眺望を楽しむ以外に使い道が
ない。この雨の中、わざわざ坂道を登って景色を見に来るような物好きはおるまいから、文秀は誰にも邪魔されることなく時間を潰すことができるのだ。
しかし、物好きはいた。泥水が川を作っている急峻な石の階段を、ゆっくりと登ってくる者がいる。傘の柿渋色が濡れた濃い緑の間で揺れている。
九十九折の角で彼はふと立ち止まり、傍らの植え込みに手を伸ばした。
袖口から伸びたほの白い手の輪郭。
(ああ、紫陽花か)
途端に、文秀は潅木の名前を思い出した。二月ほど前までは鮮やかな青紫の花が斜面のそこかしこで咲いていたのだ。その花を見下ろしていた、見慣れた横顔が、記憶の底から浮かび上がってきた。
「元述」
口中で呟いたのが聴こえたわけではないだろうが、彼は傘を僅かに傾けて、こちらの方へ顔を向けた。向こうも文秀の存在を認めたのだろう、雨の幕に邪魔されてしかとはわからないが、彼はうっすら微笑んだようだ。そして元述は再び石段を登り始めた。
文秀は欄干に肘を投げ出すようにして、その様子を眺めた。花の終わった紫陽花の小道を歩いてくる彼とは別に、青い花の中に立つ元述の姿が浮かぶ。干からびた薄茶色の花がみずみずしさを取り戻し、鮮やかな青と紫の色に染まって瞼の裏によみがえる。
意識が時間の流れを逆行して行く。
その日の雨は絹のように柔らかく降り注いでいた。文秀は傘を差さずに濡れた小道をゆったりと歩いていた。四阿へ向かう道である。光が水気を含みどこまでも拡散してゆくような頼りない風景の中で、樹陰に溶けそうな人影を見つけた。
静謐の中、紫陽花の傍らに一人立つ若い剣士。
鮮やかな花の色彩と墨色の軍服との対比が美しく、まるで一幅の絵のようだ。
ぼんやり花を眺めていた元述は、文秀が声をかけるとはっとしたように振り向いた。そして相手が誰であるか認めると、やはり微笑みで応えた。
文秀が手ぶらなのを見咎めると、元述は小走りに寄ってきて彼に傘を差し掲げた。まるでその為にそこで待っていたかのようだが、文秀はこの時間に出てくると告げていたわけではない。ここで元述に会ったのは単なる偶然に過ぎないはずだ。
わざわざ雨の中で花を見ていたのかと文秀が訊ねると、元述は葉の上を指し示した。蝸牛がゆっくりと平たい葉の上を這っている。朝方、武器庫の壁に張り付い
ていたのを見つけたので、なんとなくこの場所に運んでおいたらしい。用事を済ませて戻ってみると、元の葉の上には他にも蝸牛がいて、どれが自分の見つけた
やつだかわからなくて眺めていたそうだ。
この紫陽花の庭園は、花郎部隊がいつも使っている武器庫から随分と遠い場所にあるのに、酔狂なことだなと思った。
そう口にすれば、元述はただ笑って、ここは紫陽花がいっぱい咲いているから良いと思ったんです、と言った。どこか満足げな顔をしていた。
二人は同じ傘に入り、並んで蝸牛たちの集落《コロニー》を眺めた。
たわわに茂った青い葉の上には、多くの蝸牛が這っていた。雨に濡れた紫陽花の葉は緑に輝くようで、みずみずしく生命力にあふれている。
武器庫の乾いた壁の隅に比べれば、雨にぬれた紫陽花の葉の上は別天地だろう。気持ちよさそうに角を伸ばしてのたのた這うのんきな姿を見て、文秀は知らず笑みを浮かべていた。
雨は音も無く花を濡らし、時折、傘から落ちるしずくが葉を打つ音が聞こえるばかりだった。
わずかな沈黙の後――
これだったような気がするんですが。
元述が、葉の根元で動いているのか止まっているのか解らない一匹を指差して言った。渦巻きの中心から放射状に筆で刷いたような茶色い筋が走っている。別段、どこも変わったところの無い普通の蝸牛だ。
元述も、本気で当てようと思っていたわけではないだろう。なんとなく、会話の接ぎ穂が欲しかったのだと思う。
無理に会話がしたいという気分でもなかったが、文秀は小さく相槌を打った。視線を下げるとすぐ傍らに元述の横顔がある。
雲に閉ざされた陽光は頼りなく、それでいて白々と明るい。翠雨の中で透き通るような白い肌が瞳や髪の黒さをいっそう引き立てるのか、青みがかった雨の景色が無彩色のそれらを強調するのか。そんなことを考えながら、文秀は一言頷いたきりだった。
後が続かなくて、指差した腕が力なく下りた。そのままなんとなく宙に留まって、青と紫を混ぜたような花の一房を掴む。
花に触れる指先も、袖から覗く手首も白い。黒い服の下に隠された肌も同じように白いことを知っている。それが薄紅の花びらのように染まる瞬間も。
今は、何かを言いかけてゆるく開いた唇にその色をとどめるのみ――
文秀は視線を青い花へと移した。
肩が触れ合うほどの近さで、紫陽花と蝸牛を眺めながらたわいも無い話をした。
何故か立ち去りがたく、言葉が途切れたまま黙って二人は雨に包まれていた。
時の流れを緩やかにするその雨が、ひやりとした大気を暖める人の体温が、ひどく心地よかったのを憶えている。
濡れた枝を思い切り叩いたような音に、文秀は過去から意識を戻した。
色味を失った視界の隅で赤茶けた色が動いている。目で追うと、開いたままの傘が石段を転がり落ちていくのが見えた。二転、三転と上下を入れ替え、鞠のように跳ねながら転がって、白くけぶる雨の中に消えていった。
いつの間にか眠っていたらしい。あれからどれだけの時間が経っているのか定かでない。
傘の持ち主はどうしたのか。石段のどこにも人の姿は見えない。
背後で床のきしむ音がした。
振り返ると、望楼の上がり口に元述が立っていた。たった今水から上がってきたように、全身がずぶ濡れになっている。ずっしりと水を含んだコートの裾から今も絶えず雫がたれて床に水溜りを広げている。水滴の音が嫌に大きく耳に響く。
いつのまに雨の音が遠くなったのだろうか。
屋外は夕暮れ時のような薄暗にとどまっているが、楼内は暗く、露台から光の差し込まない部分と影の部分はくっきりと明暗の領域に分かれていた。元述はその
闇に身を浸すように立っている。黒い服から露出した白い肌ばかりが不思議なほどはっきり浮かび上がって、表情の無いその相貌はつくりものの仮面のようだ。
「傘をどうしたんだ」
文秀が問うと、元述はその場に棒立ちのまま抑揚のない声を返した。
「要らなくなったんです」
その声はまるでどこか遠い場所から漂ってくるようだった。文秀は眉を顰めて相手の表情を窺った。身近なはずの部下の顔はまるで見知らぬ他人のようによそよそしく、体温を感じさせない。
血の気のない唇がゆっくりと動いて言葉を紡ぐ。
「――には、必要……い……しょう?」
遠い場所から話しかけているようなその声は、途切れ途切れに文秀の元へ届いた。
「なんだって? よく聞こえないんだ、もっと傍に来い」
元述は動かない。顔に開いた空洞のような両目が黙って見返すだけだった。
その間にも、元述の袖から髪の先からひっきり無しに雫が垂れ、恐るべき速さで床の上の水溜りが広がり続けていた。一滴ごとに水は領土を広げ、その尋常でない量に訝しむ間もなく文秀の足元にまで這い寄ってくる。
それは赤い色をしていた。
文秀はぎょっとして、立ち尽くす元述の顔を見上げた。その姿と二重写しで、目を閉じて石の床に横たわるもう一人の元述が見えた。力なく投げ出された手足。どす黒く染まった衣服。その下からじわじわと這うように血溜りが広がって行く。
ふいに雨音が戻ってきた。滝の流れに頭を突っ込まれたような轟音に、抗うすべも無く意識が奈落に飲み込まれていく。
急速に狭まって行く視界の中で、文秀はやっと思い出していた。溶路で元述は死んだ。紫陽花の庭園も今はどこにもない。あの蝸牛の小さな楽園は、いったい誰が壊したのか。
ザア――ァ――……
まだ、雨の中だ。途切れることのない水の旋律が、文秀を出口のない絶望の中に閉じ込めてしまったようだ。
背中の湿った感触と黴臭い空気が意識を現実へと引き上げる。文秀はゆっくりと目を開き周囲の状況を確かめた。土の匂いが濃い。
彼は、古い山小屋の中にいた。朽ちた屋根の一部が落ちて、鈍い光とともに雨が降り注いでいる。床板は穴だらけで、顔を出した雑草が膝よりも高く育っていた。
かろうじて雨の吹き込まない小屋の隅で、壁に背を預ける格好で文秀は眠っていたようだ。傍らには、毛布に包まって居眠りしている房子の姿もある。夢の世界が遠くなっていく。
文秀は何かを探すように、辺りを見回した。
ふいに鮮やかな青紫色が目を射た。敗れた壁の向こうに大きな丸い葉を持つ潅木の茂みが、雨に濡れつややかな光を放っている。その葉の上にゆっくりと這う蝸牛。眠る前に見た青い色が、過去の記憶を呼び覚ましたのか。
翠雨の中でその花はなんと鮮やかに映えることだろう。緑にうずもれた廃屋に降る雨。画趣に富んだその風景はしかし、文秀の心を慰めてはくれなかった。
放浪の日々、彼の見る景色にはいつも足りないものがあった。あの日までは、この世界のどこかでそれは息づいていた。
今はもう見つからない。どこを探しても見つからない。
過去を悔いたところで仕方がないと何度も己に言い聞かせ、それでも繰り返し訪れる夢の中の面影は、どうしようもなく忘れがたいのだと、彼自身に思い知らせる。
結局自分はまた、大切なものを失った。
お前を殺したことが御史として正しい決断なら、自分は最後までその信念を貫くしかない。そうしていつか、思い出すら捨てる時が来るのだろうか――
雨脚がいっそう強くなり、世界は水の音に閉ざされてしまった。ほんとうの青空を、もうずいぶんと見ていないような気がする。見た目はどんなに美しくても、この世界は狂っているのだ。
文秀は再び目を閉じた。まぶたの裏に広がる青紫色の中で、薄紅の花が咲く。
花の影は、今もあでやかだった。