六、鬼に金棒 花には笑顔

 一度こんな光景を見たことがあった。
 兵営のどこかで、時刻は昼時だったと思う。食事を早く済ませた連中が、庭の芝生の上でめいめい話し込んだり本を読んだりして寛いでいる、といった場面だ。
 芝生の上に胡坐をかいて、なにやら細々とした道具をいじくっている英實と、その肩に肘を乗せて後ろから覗き込んでいる元述がいた。
 いつも彼はぴんと背筋を伸ばし、緊張した姿勢を崩さないでいる印象だったが、あんな風に気安く相手に体重を預けるような格好をする事もあるのかと、とても珍しく思ったものだ。
 この頃は元述もまだ花郎部隊に数多くいる下位の剣士の一人に過ぎなかった。ただ、二人とも戦場で何度か功を上げており、将官達の覚えも良かったため、いずれ一部隊を率いる立場に据えようという声も上がり始めていた。
 どちらも腕の覚えのある武人という以外に共通点のなさそうな二人だが、取り合わせの面白さに興味を引かれ、親しげにしている若者二人をしばらく観察してみることにした。
 互いの耳がくっつきそうなほどの距離で、元述は母親の手仕事を見つめる子供のように、器用に動く英實の手元を飽きず眺めている。
 遠くて声は聞こえないが、時折英實が視線を向けて何か言うと、わずかに唇が動いて二言三言――ほとんど生返事のようなものだろう――を返している。
 それを何度か繰り返してそのうち、英實が背中の元述を振り払うようにひじを上げて身を捻ると(おそらく「重い」とか「気が散る」とか言われたのだろう)、しぶしぶ身体を放したのだが、今度は英實の背中を背もたれ代わりにしてすんなりとした足を芝生に投げ出し、身体を伸ばして座った。
 それでおとなしくなるのかと思いきや、寄りかかった背中をぐいぐいと後ろに押しやってなおも邪魔をする。
 そのうち業を煮やした英實がついに作業の手を止めた。ぱっと立ち上がるとその背中を支えにしていた元述は、うわっとばかりに仰向けに芝生に転がった。その様子を見て英實が笑えば、元述はすかさず身を起こして相手の足に掴みかかっていく。そこからは取っ組み合いの始まりだった。
 まるで仔犬がころころじゃれあうように芝生の上を転がりまわっている。軍隊の中の光景とは思えないほどに穏やかな昼下がりだ。彼らを監督する上官がいない場所だからこそ見せられる、素の表情。若者が若者らしく友人と過ごしている当たり前の姿だ。
 芝草だの落ち葉だのを身体にたくさんくっつけて起き上がった元述は、花が咲きこぼれるような笑顔を見せた。彼がそんなに奔放に笑っているのを見るのは、それが初めてのことだった。
 町に出れば至極ありふれた日常の光景にすぎないのに、何故かひどく心を打たれた。記憶の中のその笑顔が鮮やかすぎて、現実での距離を置いた関係に、時折物足りなさを感じる。


**********


「へ? 文秀将軍?」
 元述の呟きを聴いた英實は、戸口の人物の思わぬ正体に素っ頓狂な声を上げた。
「気配に気付くのが遅いぞ、元述」
 仮面を押し上げて誰もが見惚れるような男ぶりの良い笑みを見せたその顔は、確かにわれらが聚慎軍の最高司令官殿だ。筋肉を誇示するかのように大胆に胸元から腹部まで開いた戦闘装束は、普段の悠然とした姿とはずいぶん印象が違った。
 その上、特徴のある長い蓬髪を大きな兜に押し込め、人目を惹く美貌は仮面に隠れてしまっているので、一見しただけでは将軍とはわからない。少なくとも英實は、元述に言われるまで本物の幽霊部隊だと思っていた。
 第一、将軍がわざわざ部下の扮装をして現れる理由が思いつかない。
(相変わらず何を考えてるのかわからん人だ……)
 唖然として見ている英實にじろりと一瞥をくれてから、文秀はいつものようにどこか人を食ったような笑みを顔に刷いて花郎の剣士を見た。
 元述は予想もしていなかった相手の登場の仕方と、動転して上官に刃を向けてしまった事に狼狽してとっさに言葉が出ない。確かに、自分の今の反応はあまりに無様だった。背後の気配に気づけなかったばかりか、殺気の有無を瞬時に見抜くことも出来ずに怯えた獣のように牙を剥いてしまった。それも、よりによって将軍相手に!
 手にした包丁を慌ててまな板の上に置くと、蒼白な顔をしてようやくのこと言った。
「もっ、申し訳ありません……」
 文秀はふっと微苦笑をこぼすと、悠然と部屋の中へ入ってまっすぐに元述の方へ歩み寄る。
 用件もわからないし、将軍が何も言わないので、元述はただその行動を見守るしかなかった。堂々とした長身が迫ってくるに従い、無意識のうちに足が後ろに退がっていく。いつもなら自分から喜んで文秀の側に寄っていく元述だったが、今はただ恥じ入るばかりで、この場から逃げ出したい気持でいっぱいだった。
 文秀はかまわず元述の正面に立つと、首を伸ばして肩越しにまな板の上を覗き込んだ。
「何作ってるんだ?」
「あの……チヂミです」
 ほう、と文秀は関心のあるようなないような声をもらして調理台の上を眺め渡す。元述は自分の顔面にかっと血が昇るのを感じた。慣れない手料理に四苦八苦している場面を将軍に見られたことが、何故か無性に恥ずかしい。
 わざわざこんなものまで着て、将軍にどう思われただろう。ポケットに縫い付けられたひよこの絵を、元述はぎゅっと強く握り締めた。
「……たまねぎを切ってたのか。――ああ、それで」
「?」
 何かに頷いている文秀の顔を、訝しげに元述は見上げた。その黒い目や長い睫毛が、濡れてつやつやしている。原因がなんであれ、潤んだような視線は男心をくすぐるのに充分だった。
 そんな目をひとに見せるなよな、と今度ははっきり苦笑しながら文秀は無造作に腕を伸ばしてその頬に手を添わせた。親指の先で目の端に滲んだ涙をそっと拭う。
「うわっ!」
 そこでようやく自分がどんな顔をしていたかに気付いて、元述はますますうろたえた。ぱっと飛び退こうとして、すぐ後ろにあった調理台に足をとられる。文秀はすかさず腕を伸ばして、よろめいた部下の身体を支えてやった。
「うろたえるな、しゃんとしろ」
「はい……申し訳ありません……」
 けして咎める口調ではなかったのだが、項垂れた元述は消え入りそうな声で答えた。文秀の方がかえって困惑するほどの落ち込みぶりだった。
 別に驚かせるつもりではなかったが、結果的に隙を突く形になってしまったのは文秀自身も認める。口ではああいったが、別に責めるつもりではないのだ。なのに何故こいつはこんなに気に病んでいるのだろうか。
 元述は元述で、尊敬する上官の前で醜態を晒しているという自覚があって顔を上げられない。
 掴んだ腕を振りほどくでもなくその場に固まってしまった部下を相手に、文秀は憮然として口を噤んだ。
 違う、こうじゃない。
(何がしたくて俺はわざわざここまでやって来たのだか)
 もしかして、まんまと灘や阿志泰に乗せられたのだろうか。いやいや、人間、やるなと言われればやりたくなるものなのだ。つまり元述に会うなと言われたから、何が何でも顔を見てやれと言う気分になっただけで――……ってやっぱりアイツラの思うつぼか?
 灘の衣装を借りたのにもさほど深い意味があったわけではなく、幽霊部隊の面と兜が覆面としてちょうど良いと思われたからだ。
 素の顔でうろつくと人目を引くと言うから、隠せば文句は無いだろうと言ってやったのだ。幽霊部隊の扮装だって平時で目立つことは承知の上である。
 今頃、灘は文秀の着物を着て、執務机に座っているはずだ。肩幅が足りないだの窮屈だの言っていたが、知ったことか。褌一丁でいろと言わないだけましだと思え。
 文秀が何も言わないのでどうしたのだろうとそっと視線を上げた元述が、相手の険しい表情を見て慌てて俯く。花形部隊を率いる国一番の剣士といえど、将軍の前では飼い主の機嫌を窺う仔犬のような存在でしかないのである。それを可愛いと思うか卑屈と思うかは、見る者次第なのだ。
 これが他人の場合なら文秀は後者だったろう。そもそも他人の顔色を窺いながら立ち回るような人間は嫌いな部類に入るのだ。いいや、そうではない。少なくとも元述は、相手の出方を見て態度を変えるような器用なことは出来はしまい。
 それにしても、ちょっとした仮装大会だなと、文秀は眼前の剣士を見下ろした。相手は普段の服装に前掛けを一枚つけているだけなのだが、それだけでも随分印象が変わって見えるものだ。
 これでもう少し明るい表情をしてくれたら申し分ないのだが。この世の終わりみたいな悲観的な顔で項垂れてる部下に、長いため息が漏れた。それがまた元述に後ろ向きな想像をもたらす。
 傍で見ている英實は、向かい合ったまま黙りこくっている二人の異様な雰囲気に、どうしたらいいのかわからない。
(ああ……なんだか凄く居心地悪い!)
 しかしそうした緊張は長くは続かなかった。兜の中に長髪を全部押し込めているのでそろそろ暑苦しくなってきた将軍が、けだるそうに唸ると、元述から手を放してその場にどっかりと腰を下ろす。立ちっぱなしの部下を見上げて「座れ」と命じれば、困惑しつつも元述は従った。
 文秀が大きくて重そうな兜を脱いで軽く頭を振ると、たてがみのような黒髪が波打って広がる。その豊かな髪は引き締まった長身や鋭い眼光と共に、獅子のような風格を彼に与えていた。こんな粗末な小屋の中に居てもその威厳は失われていない。
 元述はまだどこか不安げな様子で、文秀の傍らに下知を待つように端座している。常のそうした振る舞いを、まるで訓練された飼い犬のようだと揶揄するものもいるが、年若い剣士の端然とした佇まいが見苦しく映るはずも無い。
 犬の何が悪いのだ。ただ純粋に人に好かれたいが為に、ひたむきに尽くす犬の何が悪いというのだろう。
 まっすぐに自分を見上げる透き通った黒瞳を、無言で見つめ返す。このまま何も言わなければ、いつまでもこうしているに違いない。
「たまねぎを切るときはな――」
 唐突に文秀が切り出した。何を言われるのかと身構えて待っていた元述だが、思いも寄らない方へ話題が飛んだので虚を衝かれたようだった。黒い目を丸くして、首を傾げた。
「切れ端を、口にくわえながらだと、余り目が痛くならないと聞いた」
「……そうなのですか?」
 つぶらな眼が何度も瞬きをして文秀を見る。こんなにでかいとすぐ目にごみが入って大変なのではと、おかしな心配をしたことがある。ああ、と頷きながら、さぞかしその目にたまねぎは染みただろうと、眼を真っ赤にしながらまな板に向かう元述を思い浮かべた。
「将軍は、普段ご自分で料理をなさることもあるのですか?」
 どこからそんな知識を得るのだろうと、不思議そうに元述が訪ねる。顔いっぱいに疑問を浮かべて首を傾げている様子は、あどけない子供のように見えた。
「がきの頃にな、他人の家のたまねぎ畑に盗みに入ったことがあって、まあ、結局見つかっちまったんだが、罰としてその家のばあさんにたまねぎをひと山刻むように言いつけられてな。終わった時には瞼がはれてまともに眼を開けてられない状態になった。その時ばあさんがそんなようなことを言っていたんだ」
「たまねぎをひと山、ですか……」
 実際に今自分が苦労しているので、想像してみて元述はうんざりしたようだ。しかし目の前の上官が老女に小突かれながら泣き泣きたまねぎを刻む姿というのは想像の範囲外だった。人間誰しも子供だった時期があるものだが、この人なら生まれた時から将軍でしたと言われても納得してしまうかもしれない。
「まあ、そんなこと教えられても、あの量を刻んだらたいして効果が無いと思うが……どうせなら、最初に教えておいてくれりゃいいものを……まったく」
 思い出してぶつぶつ言っている文秀に、思わず元述は笑みをこぼした。
 花が咲うとはこのような様を言うのか。
 煙草を吸わない元述の歯は白く歯並びも良い。それが花びらのように色づいた唇からわずかにこぼれて笑みを形作る様は、白い小さな花びらがほろほろとこぼれる様子を思わせた。
 やっと笑ったな。
 文秀は眼を細めて、笑みにほころぶ元述の口元に視線を留めた。その口元にも、柔らかい笑みが浮かんでいる。
 文秀は機嫌を良くして、さらに雑談を続ける。
「おまえは、いたずらをして叱られたことなんてなさそうだな」
 さぞかし行儀よくしつけられたんだろうと、おとなしやかな少年時代の元述像を描いていると、本人はゆるゆると首を振った。
「そんな事はありません。小さい頃はよく父の書斎でいたずらをしてお目玉を食らったものです」
「へえ……。どんないたずらをしたんだ?」
 元述はちょっと記憶を探るように視線を空にさまよわせた。それからちょっとばつの悪そうな表情で「笑わないでくださいね」と前置き、告白する。
「別段、悪さをしようというつもりではなかったのですが……。蝶の中で、カワセミみたいな青い綺麗な羽のがいますでしょう、黒い綾の模様がある。あれをたくさん捕まえてきて、父の大切にしていた書物の間に一匹ずつ挟んでおいたのです。本人は綺麗だから父が喜ぶだろうと思ったのでしょうが……貴重な本の頁を汚してしまい、当然、叱られました」
 生き物をむやみやたらと殺すでない、と散々説教された後、罰として土蔵に押し込められたという。
 その頃元述は、蝶と花の区別がついていなかった。地面から生えている花が、茎から離れて蝶になると思っていた。よくひらひら飛んでいる蝶を指さしては「はな」と言って喜んでいたらしい。
「どこかで押し花のしおりを見て、真似をしたつもりなんでしょうね。自分でもちょっと、その……ばかだなあとは思うんですが……」
 三つか四つの頃である。当人はまったく記憶に無くて、たくさんの蝶も自分で捕まえたのではなく従者にねだって捕ってもらったのだ。まさか主人の大切にしている本のしおりにするとは思わなかっただろう彼は、さぞかし泡を食ったに違いない。この話は後にその従者から笑い話として聞かされた。
 他にも色々聞かされたことを思い出して、ひとり赤くなっていると、文秀が声も無く肩を揺すって笑っているのが見えた。途端に元述は柳眉を逆立てる。
「自分から言わせておいて、笑うことはないじゃありませんか!」
「笑わないとは言っておらんし、無理に話せとも言っとらん」
 ずるいですよ、と呟いてむくれた顔を見て、また笑いの発作がこみ上げてくる文秀だった。
 随分とかわいらしい話を聞いてしまった。他にもいろいろ聞き出してみようとせっついたが、へそを曲げてしまった相手は「もう何もありません」と繰り返してそっぽを向くばっかりだ。
「それよりも将軍は、何か御用がおありだったのではないのですか」
 思い出したように元述は訊ねた。そもそも将軍が幽霊部隊の格好をしている理由もまだ教えてもらえていない。もちろん元述にはそれがどんな意味を持つのか、見当もつかなかった。
「なんだ。用件を済ませてさっさと帰れといいたいのか?」
 違うと知りつつそんな言い方をすると、元述はむきになって否定する。
「そんな事は申しません! ですが、将軍はお忙しい身のはずです。このような場所で無駄話に費やす時間などお持ちではないでしょう」
「そうか? 俺は別に無駄話だとは思わないがな。それに、今は昼休みだぞ。お前は俺に休憩時間も与えてくれないつもりか?」
 少し意地の悪い言い方だったかもしれない。元述はひどく困った様子でもごもごと言い繕った。
「そんなつもりでは……ただ、わざわざ将軍がおいでになった理由が知りたいだけです」
 本当にわからない、と言う顔をしている。文秀はため息の代わりに軽く肩をすくめた。
「理由も何も、昼休みだから休憩しに来たんだろうが」
 そんな風に答えてやると、元述は呆気にとられたような顔をした。
「それだけですか?」
「いかんのか」
「いえ、ですがなにも、こんな狭苦しい場所でなくとも……」
 狭くて悪かったな、と小屋の持ち主は隅っこで置物のふりをしながら内心で呟いた。さっきとは別の意味でとても居心地が悪い英實である。
 もうなんとなく、将軍が何をしにここに来たのかは英實には察しがついた。さっき将軍は「何をしているのか」ではなく「何を作っているのか」と元述に訊ねた。例の噂のこともとっくに耳にしているのだろう。
(それでわざわざ、変装してきたってわけか……)
 英實には意外な気がした。将軍は周りが何を言おうと気にしない質だと思っていたからだ。
 おそらくは将軍本人も噂の存在自体はそれ程問題視していないだろう。気に懸けているのはそれらがもたらす影響の方で、風評による被害を一番大きく受けそうなのは誰か、ということなのだ。
 単に政争に利用されそうな材料を野放しにしておけないという理由もありそうだが、元述に何も言わないところを見るとそれだけでは無さそうだ。
 正直、英實は将軍がそこまで元述を大切にしているとは思っていなかった。忠実で腕の立つ部下に愛情はあるだろうが、それは働きに応じて与える褒賞のようなもので、個人的な好悪の感情とは無関係なのだろうと。
 しかし、人目を欺いてまで忍んで様子を見に来たと言うことは、それは英實の見当違いだったのだろうか。
 元述が英實との賭けに負けて料理を作ることになったのを、何故か「花嫁修業なのだ」とおかしな噂を立てられて、さらにおかしな事に相手は将軍に違いないという流言が飛び交っている。
 そこで元述が料理をしている現場へ将軍が顔を出したりしたら、またしてもややこしい噂が立ちかねない。それくらいは将軍も予想がつくことなのだろうに、こうしてやって来た。ただの天の邪鬼という気もするが、周囲に悟られないようにこっそり(目立つことは目立ったのだろうが)現れた辺りが将軍らしからぬ殊勝さで、英實には奇異に感じられた。
 面白いからそうしたのだと言われればその方がいい。そうでないとしたら――人目を忍んでまで訊ねてくるほどの動機があるのだとしたら――それはもう、噂どころの騒ぎではないのではなかろうか。
 俺は何か今見てはいけないものを見ているような気がする。居てはいけない場所に居るような気がする。
 かといって、この場を離れたら取り返しのつかない間違いが起こるような気がして、英實は身動きがとれずにいるのだった。
 そんな外野の存在をしってか知らずか、文秀はもの問いたげに見上げる元述の顔を黙って見返している。禽獣を思わせる色の薄い眸で見据えられると大抵の人間は迫力に恐れおののくが、元述には違う効果があるようで、眩しそうに二三瞬きをした後はにかむように眼を伏せた。
 二人はそれからしばらく他愛のない会話を続けていたが、やがて文秀が腰を上げて辞去の意を告げた。
「そんじゃあまあ、気も済んだことだし、俺はここら辺りで退散するとしようか」
「あ……」
 もう行ってしまうのかと言いたげに元述は眉間を曇らせた。自分の執務室で休まないのを不思議がっている割には、もっと一緒にいて欲しそうな顔だ。腰を浮かせて引き留めようか迷っている風の元述に、文秀は幽霊部隊の大兜を手渡した。
「ちょっと手を貸せ」
 と言って、豊かな長髪を適当にまとめ上げて兜に押し込む作業を手伝わせる。結局その格好が何なのかも元述には教えないままだった。
 身支度を整えて出口に向かう将軍の後を、見送るように元述がついて歩く。
 戸口をくぐる前に一度立ち止まって文秀は半歩後ろを歩く部下を振り返った。手を伸ばして指の背で軽くその唇に触れる。ほんの一瞬。その手はそのまま元述の後頭部に収まってまろい頭の感触を楽しむように動いた。
「たまねぎ、試してみろ。ほんとに痛くならないか後で教えてくれ」
 戯れ言のようなものだったが、元述は大げさに見えるほど真面目な顔で頷いた。
「はい。明日にでも報告に上がります」
 仮面の下の顔が笑みを作ってそのまま戸外へと消えた。戸口に佇んだまま元述は歩み去っていく背中を見送っている。
「…………」
 その姿が消えて、初めて微かに漂う煙草の香りに気がついた。将軍の残り香だろう。
 そういえば、将軍は一度も煙草を吸われなかった。せっかく休みに来られたのだから、一服する時間ぐらいは、もっとゆっくりしていただいても良かったのに。
 追い立てるようなことを言ってしまったのを後悔する。気の回らない自分にため息をつきながら元述はきびすを返した。そして、部屋の隅で長々と床に伸びている英實を見て、ぎょっとする。
「な、なんだ? どうかしたのか?」
 慌てて駆け寄って覗き込むと、英實は地面に張り付いたまま、顔だけを元述に向けた。ひどくげんなりした様子だった。
「どうもこうもなあ……。あー疲れた。息が詰まるんだよな、あの人が目の前にいると」
「日頃の行いが悪いからだろう」
 別に身体の異常ではないことを見て取ると、元述はしれっと憎まれ口を叩いてすぐに調理台の前に戻った。これだよ、と英實は眉を顰めた。こいつがしおらしいのって将軍の前だけなんだからなあ。
「ごちそうさまでした」
「まだ何も食わせてないぞ」
 怪訝な顔を向ける元述に、床の上で器用に英實は肩を竦めて見せた。
 まな板を前にした元述は早速たまねぎのかけらを口にくわえて包丁を構える。将軍に言われたことを早速実践してみようというのだろう。
 さくさくとたまねぎを刻む様子を、床に寝転がったまま英實は眺めた。真剣な横顔の、眉が次第に険しくなって、目が潤んでくる。
「……あんま、効き目無いみたいだな」
「…………」
 元述は何か言い返そうとして、口にくわえたたまねぎが邪魔をした。いったん口にしたものを吐き出すわけにもいかず、僅かに考えた後、もぐもぐ噛んで飲み込んだ。
「つまみ食いすんなよ」
「つまみ食いじゃない! それにちゃんと効いている」
「嘘だあ。お前、泣いてるじゃねえか」
「泣いてなぞいない!」
 元述がむきになる理由は解らないでもない英實だ。この男にとって、文秀将軍の言こそ絶対なのだろうから。文秀将軍が効くと言ったら、本当に効くはずなのだ。
 それ故に、ついからかってみたくなることも否めない。
「まあ、たまねぎを口にくわえるって方法も確かにあるらしいけど、一番いい方法はさ、切れ味のいい包丁でたまねぎの組織をつぶさないように上手に切る、ってのが確実なんだよな」
「は?」
「あとは、氷室で冷やしてから切るなんてのも効くらしい。要はたまねぎの目に染みる成分が飛び散らないように抑えるって事だろ」
 床に肩肘をついて頭を支えながら、くつろいだ格好で英實が言うのを、呆然と元述は見返した。知っていたなら何故もっと早くそれを言わないのか。そうしたら、あんな恥ずかしい思いをしなくても済んだのに。
 そう文句を言うと、英實は悪びれもせずに答えた。
「しょうがねえだろ。将軍の話を聞いて思い出したんだから」
 それから、別の話を思い出してぷっと吹き出す。
「蝶の押し花ねえ……」
 動揺した元述は、勢い余ってたまねぎと一緒にまな板まで切ってしまった。
「おい……人の道具、壊すなよ!」
「うるさい! ぺらぺら余計なことをしゃべるな! さもなきゃ貴様の臓物《はらわた》を引きずり出してその口に押し込むからな!!」
 言ってることは凄まじいが、顔を真っ赤にして包丁を振り回している姿はあんまり怖くなかった。少なくとも英實には。
「俺はそれより早くチヂミを食わせて欲しいんですが〜」
「だったら黙ってそこで見てろ!」
 そう怒鳴った元述の声に被さって、長々と大きな鐘の音が鳴り響いた。
「あっ」
「あー……」
 兵営のどこにいても聞こえるそれは、昼休みの終了と午後の訓練の始まりを告げる予鈴だった。