一、藪から棒な話

 聚慎が誇るエリート剣士部隊、花郎《ファラン》。その花形集団の中でも最高の剣士の称号〈郎〉を授けられた元述という若者は、眉目秀麗、素直で明晰、そしてもちろん剣の腕は超一流――と天は二物も三物も与えたようであるが、そんな彼にも苦手の分野は当然のように存在する。
「お前ってホント、こういうの弱いよな」
「………………」
 苦笑混じりの英實の言葉に、憮然とした表情で元述は手にした札を見つめた。五枚全部、絵柄も数字もばらばらで、何の役も出来ていないそれはいわゆる〈ブタ〉。
 戦の無い時は鍛錬・修練・軍事演習また鍛錬、と色気のない生活をしている軍人達が、娯楽としてのカードゲームに興じたりする事は別に珍しくない。「趣味は修行」と言い切る元述とて、友人を伴い外食をするし、付き合いでカードの勝負をする事だってある。
 その際に「負けたら罰ゲーム」と言う賭け要素が付いて来るのは、負けることが許されない職業軍人の体質のようなものであるか。単に賭け事が好きな連中が多いだけかもしれない。
 元述は別に博打が好きなわけではないが、彼が憧れてやまない文秀将軍が以前に言った「賭けなきゃつまらんだろう」の一言でもう、そうするのが当たり前になってしまっている。けして賭け事が得意なわけでもないのに、だ。
 むっつりと黙り込んでいる元述を横目に、英實は上機嫌で点棒代わりの爪楊枝を自分の前に一本、置いた。彼の前に並べられた楊枝の数は十本、対する元述の前には一本も無い。
「ほい、十点先取。どう見ても、俺の勝ちだよな?」
「………………」
 無言の元述を気にもせずに英實は上機嫌で続ける。両の掌を顔の横で開いて、戯けたように振ってみせる友の顔を、黒曜石のような目が睨む。すっと目を伏せた白い面貌は陶器の人形のように端然とし、世俗の情には揺らがないと見る人は思うのだろう。……が。
「お前はすぐ顔に出るからなあ。……さて、約束通り罰ゲームをしてもらうわけだけど――なにをしてもらおうかなー」
「…………くっ」
 へらへらと白い歯を見せて笑っている英實の態度に、元述は初めて反応を見せた。細筆で丹念に描いたような柳眉がきゅっと寄せられ、噛み締めた唇から心底口惜しげな呻き声が漏れたのだ。花郎最強の剣士殿は、たかがカード遊びでも負けるととても口惜しいらしい。本当によく表情に出るやつだと英實は内心でにやけた。こういう反応を見て楽しめるのも親友の特権だとか、勝手に思っているのである。
「…………さっさと決めろ」
 ぼそりと不機嫌極まりない声音で言うが、約束を反故にするつもりは無いらしい。生真面目な元述らしい心根だ。
 もっともここは兵舎に備え付けの食堂なので、今も周囲には彼らの同朋が同じように飯を食ってくつろいでいる。片や最強の剣士、片や最強の武闘家という、武を司る者達の双璧を成す二人の若者は、一般兵士からすれば憧れの的だ。当然、正面から注視はできなくとも、どんな会話をしているのか聞き耳を立てて様子を窺っているに違いない。
 天下の元述郎ともあろうものが、部下の前で賭けに負けて見苦しい態度を見せるわけにはいかないのだろう。
 その辺りまで計算の上で、賭けに臨んだのだ。無論、自分が勝つであろう事も当然予想していた。何しろ本当に元述は博打に弱いのだ。
 それを承知で勝負を吹っかけるのは酷いって? 何も無体な要求をしようってんじゃないんだ、別にいいだろこのくらい――と心中で自分に言い訳しながら、いかにも今思いついたという風に英實は口を開いた。
「そうだなー、じゃ、明日から一週間、毎日昼飯を作ってもらおうか」
 ぴたりと一瞬にして食堂が静まり返った。
 向かい合わせで座っている元述は、顔を上げ丸い目を見開いて唖然としている。
「は? 昼飯?」
「うんうん」
 腕を組んで頷いている英實とは裏腹に、元述は戸惑い、何度も目を瞬いた。それはそうだろう。何か無茶な提案を(新発明の実験台になれ! とか)されるのかと身構えていたところに肩透かしをくらい、しかも何だか突拍子も無い要求を突きつけられたのだ。
 飯を作れ? 奢れじゃなくて?
「作るって、その、俺が?」
 うろたえる元述に対して、英實はあくまでも当然のように言う。
「そりゃそうだろ。罰ゲームを受けるのはお前なんだから」
「いや、しかしなんで急に飯を作れだなんて――」
「うーん、普通に『奢れ』でもいいんだけど、それじゃなんかつまらないかと思ってさ」
 陽気に言い放つ英實の声が無言の食堂に響いた。昼食時の混雑した時間帯にも関らず、人で満ちた空間は調理場から肉が焼ける音が聞こえてくるぐらいで、しわぶき一つない。そんな異様な雰囲気にも気付かず、焦りを顔一杯に浮かべて元述は抗弁する。
「でも、俺は料理なんて一度も作ったことが無いぞ!?」
 眉尻がすっかり下がっている顔を見て、おお、困ってるなと英實は楽しくてしょうがない。
「だから罰ゲームなんだろ。それとも、別のにするか? 俺の発明品の試運転第一号に――」
「それは絶対に嫌だ」
 間髪入れずに拒否されて、それはそれでちょっと傷つく英實だ。しかし、こうなればもう答えは決まったようなものだろう。
「それじゃあやっぱり、飯を作ってもらわないとな。嫌とは言わないよな? 正々堂々の勝負の結果だもんなあ」
「うっ……」
 元述は少し俯きがちに視線をさ迷わせ、反論の言葉を探したが思い付かないらしく、口篭もる。暫くの逡巡の後、半ば睨むように英實を見上げ、言った。
「知らないぞ……どうなっても」
「よっしゃ、決まりだな!」
 右の拳を左の掌に打合せ、英實は意気揚揚と立ち上がった。勝負に勝ち、自分の要求も押し通すことが出来て大満足である。対する元述はどこか途方に暮れたような顔で、機嫌のいい親友の横顔を見上げていた。
 トレードマークの帽子をかぶりなおし、英實は二人分の食器を返却カウンターに戻してさっさと食堂を出て行く。その後ろ姿に何か言いかけた元述は、結局溜息だけをこぼして席を立った。椅子に掛けていた上着を手に取って、周囲の視線が集まる中、静かに食堂を後にする。
「ごちそうさま……」
 その細身の長身が扉の向こうに消えた途端、内部はどっと沸き返った。今まで息を潜めるように成り行きを見守っていた連中が、同席の相手とたった今見た光景に付いて、興奮した口調で話し始めたのだ。
「聞いたか、おい!」
 そしてその日のうちに噂は軍を駆けめぐった。


**********


 さて不本意な結果となってしまった元述だが、彼は予備知識無しに未知の分野に挑んでいけるほど無謀な質ではなかった。いやこれが戦場ならばどんな相手だろうと果敢に挑んでいくのだが、敵が畑違いの事となると、途端に弱い。
 日課となっている午後の全体演習が終わると、自己修練も早々に切り上げて図書館へと急いだ。閉館前に少しでも料理関係の資料を集めておこうと思ったのだ。
 司書に目的の書籍がある場所を聞くと、とても驚いた顔をされた。昇進試験の時などに元述らも図書館を利用するので、戦と関わりのない文官の司書でも兵士と顔見知りになったりもする。もちろん、この司書も元述が誰だか知っている。
「元述郎さまも、料理をなさるのですか?」
 珍しいものを見るような顔で、司書は当然の疑問を口にした。彼には悪気はないのだろうが、当の元述は恥ずかしくて仕方がない。賭に負けて料理を作らされるのだとは言えず、曖昧に言葉を濁していると、入隊試験の時もお世話になったベテランの司書は、それ以上追究せずに事務的な質問に切り換えた。
「研究書ではなくて、実用書の方でいいんですね? でしたら、分類記号・戊の家政学六番です。読み物的な本も混じっていますが、レシピ集は二〜五段目に納めてありますので……」
 書架の場所を教えてもらい、礼もそこそこにそそくさとその場を離れた。
 公共の資料がある本館は、外部の人間も所定の手続きを踏めば利用できるようになっており、官僚を目指す仙比などの学生も出入りするために、宮城の最も外縁にある。元述らが生活する兵営は閉館と共に閉じる通用門を隔てたずっと奥にあるので、もたもたしていると帰れなくなってしまうのだ。
 王立図書館は日没と共に閉館する。もう太陽はとっくに西に傾き始めていた。あまり時間がない。
 教えられた場所に行くと、元述の身長の二倍はありそうな書架の上から下まで、びっしりと資料が詰まっていた。一体こんなにどこからかき集めてきたのだろうか、確かに全てが料理に関するもののようだった。
 この大量の本の中から、自分の力量に合うレシピ本を見つけなければならないわけだ。元述は何だか眩暈がしてきた。
 だが、何の手本も無しにいきなり料理など作れる気がしない。何しろ包丁の握り方すらよく分からないのだ。
「人を斬るのとは勝手が違うだろうしなあ……」
 儚くすら見える不安げな表情で書架を見上げながら、物騒な独り言を漏らす。顔つきとセリフが似合っていない。閉館間際で人気が少なく、誰も聞いていなかったのが勿怪の幸いだった。
 突っ立って悩んでいても時間ばかりが過ぎるだけなので、取り敢えず片っ端から書名と目次を読むことにした。書架の二段目からと司書は言っていたが、遙か頭上にあるために移動式の架台を転がしてきて上に登った。架台のてっぺんに座り、左端から引っぱり出して順番に開いていく。
 「十分で作れる夕飯のおかず」、「愛妻弁当はこれでキマリ!」、「味付け入門」、「いまどきの宮廷料理」、「おかしなお菓子の本」、「おふくろの味」、「家庭で出来るミイラ」、「カルト・クッキング」、「究極のラーメン」、「郷土料理百選」――エトセトラ、エトセトラ。
 何だか途中違うのも混じっていたような気もするが、実にバラエティに富んだ蔵書の数々である。それにしてもこんなにいっぱい料理の本があっても、誰が読むんだろう。元述には不思議でならなかった。みんなけっこう自分で料理とか作ったりするんだろうか。しかしそもそも彼等が生活している寮には個人の厨房など備え付けていないわけで、作るとしてもどこで――
「……あっ!!」
 そこまで考えて、元述は自分がいざ料理をしようとなると場所がないことに気が付いた。場所はおろか、調理器具だってどこからか調達してこなくてはいけない。それとも、厨房を借りるとか? プロの料理人が見てる前で、ど素人の自分が――うわぁそれは恥ずかしいぞ。第一、何で英實のためにそこまでしなくちゃいけないんだ。
「……英實のやつ!」
 軽い調子で言ってくれたが、どうもこの罰ゲームとやらはクリアすべき課題が多すぎるような気がした。今更撤回してくれとは言えないが、問題点を指摘して文句を言うぐらいはしなければ気が済まない。
 とにかく早く本を選んで英實の所へ行こうと、ズラリ並んだ背表紙の文字を目で追うが、気が焦って頭に入って来ない。そもそも、料理のレシピよりもまず基本的な事を教えてくれる本が必要なはずなので、そこから間違っているのである。
 ここはやはり恥を忍んで司書に選んでもらおう、と元述が架台を降りていこうとした時、
「珍しい所でお会いしますね」
「ぅあっ!」
 不意に後ろから声をかけられて、元述は驚きの余り足場を踏み外した。
「あ、大丈夫ですか?」
 幸い殆ど降りきっていたのでそのまま床に立つだけで済んだが、滑り落ちた時に段差に思いきり向こう脛をぶつけてしまった。かなり痛い。
 聞き覚えのあるその声の主が気遣うように近づいてくる気配がした。目をぎゅっと閉じて架台にしがみ付き、痛みをやり過ごした後そろりと後ろを振り返ると、少女のような顔立ちをした文秀将軍の補佐官が、申し訳なさそうに見上げている。
「すみません。別に驚かすつもりではなかったのですが」
 余りこういう場面で出会いたくない人物だった。阿志泰は軽く頭を下げると、元述の返事を待つかのように、丸い眼鏡の向こうからじっと見つめてくる。
「だ、大丈夫だ。なんともない」
 元述は眉根を寄せたままぶっきらぼうに言った。文秀将軍の寵をめぐって二人は敵対関係にある――と言うのは外から見た連中の悪意のこもった噂だが、事実からそう遠くも無いのではないかと元述は思う。実際、突然よそからやって来た阿志泰に対して自分はあまりいい感情を抱いていないし、文秀将軍が阿志泰を高く評価している事も口惜しいし……羨ましい。自然に態度も硬くなるというものである。
 しかし阿志泰のほうはまるで気にした様子も無く、軽く微笑むと元述の後ろを見やっていきなり尋ねた。
「元述殿は、自分で料理をするのがお好きなのですか?」
「いや、これは……」
 料理の本が並んでいる場所で本を選んでいるのを見れば、そのような問いが出るのも自然だろう。が、これは罰ゲームなのだ。賭に負けて、上手く言い抜けも出来ず、不本意ながら作らされる羽目になったのだ。意識的にしろ無意識にしろ、対抗意識のようなものがある相手に対し、そういう事はやはり言い難いものだった。なんとなく情けないし。
 歯切れの悪い元述に対し、阿志泰はにこやかな表情のまま気さくに言葉を投げかけてくる。
「ああ、文秀将軍に作って差し上げるとか?」
「えっ!? い、いや」
 突然出てきたその人の名に、元述は一気に心拍数が上がるのを自覚した。なんだって、将軍に食事を作って差し上げるだって? そんな畏れ多い事!
 元述の脳裏に、艶っぽい微笑を浮かべて自分を見下ろす文秀の美貌が浮かんだ。将軍……将軍にだったら昼食一週間などと言わずに毎日でも作って差し上げたいが、そもそも自分は粥の一つも作った事がない。今度のこれだって一体全体、どんな代物が出来上がるものやら、まともに食べられるものが作れるかどうかさえ甚だ危ういのだ。
「そんな、初めてだし出来もわからないし……とても将軍に召し上がっていただくようなものは――」
 うっかり口走ってしまい、元述ははっとして口を押さえた。しかし阿志泰は特に嗤うでもなく、興味深そうに、赤くなってもごもごしている元述を眺めている。
「ああ……それで」
 一人頷き、立ち竦んでいる元述の脇をすたすたと通り抜け、背後の書架の前に立った。
 すっと指先を前に差し出すと、つつつ、と背表紙の上を順になぞっていく。その指先は、まるでどこに何があるのか予めわかってでもいるように、迷いもなく一つの本の上で止まった。
「これなどいかがでしょう」
 微笑みながら阿志泰が差し出したあまり厚くない本には、「普及版・はじめての料理」と表題が付いていた。
 戸惑いながら受け取りページをめくると、調理器具の名前と用途、食材の保存法法、野菜の切り方などが図解されている、正に今の元述が必要としている知識がつまった料理本のようだ。簡単な料理のレシピまで完成図付きで載っている。
 元述は半ば呆然として、阿志泰の顔を見た。相手はあくまでも穏やかな表情を崩さず、微笑を湛えて彼を見つめ返してくる。
「……あ、その、た、助かる……」
 そのまっすぐ覗き込むような視線にいたたまれず、元述は俯きがちにぼそぼそと答えた。阿志泰はにっこりと微笑んで「お役に立てて光栄ですよ」等と言うのである。
 どこまでも柔らかな物腰に、元述は急に自分が恥ずかしくなってきた。相手が親しげにすればするほど、どうしても蟠りの消えない自分が狭量に思えてくるのだ。
 「急ぐから」と言い訳し、逃げるようにその場を辞する。見送る阿志泰の視線がいつまでも背中に突き刺さるような気がして、大股で出来るだけ早くそこから離れるように。
 こんな感情にはあまり慣れない。どう見たって、一方的に嫉妬しているのは自分の方なのだ。阿志泰にはきっと何も恥じる事など無いのだろう、と元述は思う。だからああも泰然としていられるのだ。
 自己嫌悪にまみれ、貸出手続きの際に先ほどの司書が心配そうに見ているのにも気付かず、とぼとぼと図書館を後にした。いつの間にかすっかり太陽は地平に沈み、夜の闇がゆっくりと聚慎の都に降りつつある。
 気が付けば元述はそこに立っていた。見慣れた窓の下に佇み見上げる元述の足先に、文秀将軍の執務室から漏れた灯りが落ちている。
「…………」
 無意識に足がこちらを向いてしまったものの、将軍の顔を見て、それで何を言おうというのだろうか。灯りの向こうで今も忙しく執務をこなしているだろう将軍の邪魔をするわけにもいかない。
 独りため息を零すと、元述は闇が濃さを増していく庭園を自分たちの生活区へと向かい、歩き始めた。


**********


 英實は寮の自室にいない場合は大抵、兵舎の片隅に自分で拵えた小屋にいる。彼の趣味はそこで色々な「発明品」とやらを作る事で、町に出た時にも様々な日用雑貨をかき集めて来ては改良を施し、元述から見れば何の役に立つのかさっぱり解らないようなものを作り出していた。
 ただ作るだけならいいのだが、実用試験だとか言ってそれを部隊内で試そうとするのはやめて欲しいと思う。何しろ今まで成功した試しがないのだ。多少建物を壊すぐらいなら構わないが、部下を何人か病院送りにされたこともあるので、彼が持ち出してくる「試作品」とやらには常に警戒を怠らない。
 それはさておき、元述の「料理を作るにも場所がない」という抗議に対し、あっさりと英實は言った。
「ここ、使わしてやるよ」
 元述は複雑な表情で英實自慢の作業場を見回した。作りかけの発明品らしきもの、いずれ材料として使われる予定なのであろう雑貨の類、工房にある炉を小型化したようなものや、元述が名前を知らないような工具、薬品の瓶……等々が棚に並べて置いてある。棚の別の場所にはかなりの量の本が収められていた。意外と整理されているようだが、物が多すぎるのか棚に入りきらず床に積み上げられ、一見散らかっているようにも見える。
 ガラクタとも思しき雑貨の中には一体何に使う予定なのか、鍋だのヤカンだのお玉など確かに調理器具と見えるものも混じっていた。流し台まで備え付けてある。
「竈もあるから、大抵の料理ならここでも作れると思うぜ」
 玩具を自慢する子供のように、得意げに英實は言った。褐色の逞しい顔の中で白い歯がこぼれ、人なつっこい表情を作る。英實のそういう表情は実は嫌いではない。なんだかホッとする。特にこういう、鬱屈した気分の時には。
 英實が指さす方を見ると、片隅に本当に竈があって、今も何か火にかかって煮えているようである。コトコトという液体が沸き立つ音と、妙な匂いが……
「……何を作ってるんだ?」
 訊いてしまってから、止せば良かったと元述は失言を悟った。英實の表情がよりいっそうにこやかになり、目を輝かせてまくし立て始めたのだ。
「よくぞ訊いてくれた! 実は今『虫避け匂い袋』の試作中なんだ。野外演習の時にさ、藪に潜んでいると虫に悩まされるだろう? そういうときにこれを携帯していたら、虫の方で嫌がって寄ってこないという――」
 解説しながら英實は火にかかった手鍋のふたを開けた。途端に虫どころか人も獣も逃げ出しそうな強烈な悪臭が立ち上り、元述はおろか英實までも咳き込んで鼻を覆った。慌ててふたを閉じる。
「ち、ちょっと匂いがきつすぎたかな?」
 手ではたはたと臭気を振り払いながら、目を瞬かせてばつが悪そうに英實は言った。口元をハンカチで覆いながら、涙目で元述はきっぱりと言う。
「その前に、匂いで敵に気づかれると思う」
「……大丈夫! 敵も匂いに辟易して寄ってこない! わはは」
 笑ってごまかしておきながら、小声で「うーん、まだまだ改良の余地ありか……」などと呟いている親友に、元述は呆れつつ懲りない奴だ、と思った。でも多少の失敗ではへこたれない精神は、見習うべきなのかも知れない。
「それで? 明日は何を作ってくれるつもりなんだい?」
 話題を変えるつもりか、英實が訊ねた。何も考えていなかった元述は、慌てて図書館から借りてきた本を開く。それを見て英實は嬉しそうな声を上げた。
「へえ! ちゃんと本見て作ってくれるんだ? お前らしいっちゃらしいな」
「からかってるのか?」
 恨めしそうな目で睨まれて、苦笑しつつ首を振る。
「そうじゃなくて、有り難いなと思ってるよ、ちゃんと」
 元述の横から本を覗き込み目次にあるレシピの項目を見て、英實は賭の勝者としての権利を有効に使い注文する。まったく、花朗の最強剣士に飯を作らせるなんて、こんな機会でもなければ叶わない。
「これなんかどうだ? チヂミ。チヂミ食いたい」
「……じゃあ、それで」
 いくらかホッとしながら元述は頷いた。自分で考えるよりも相手に決めて貰う方がずっと気が楽だ。目標さえ決まれば、それに向かって努力するのは苦ではない。
「へへっ。楽しみだな」
 本心からのように、満面の笑顔で英實が言った。

 こうして、彼等を含む聚慎軍の将兵にとって波乱の一週間が幕を開けたのである。